社名「偶庵」の由来

執筆 : 安河内眞美

川合玉堂

川合玉堂当社の「偶庵(ぐうあん)」という名は、近代日本画壇の巨匠・川合玉堂の別号と、晩年を過ごした住居の名に由来しています。

玉堂は晩年、次第に激化していく戦争から逃れるため東京都の奥多摩へ疎開します。若い頃、上京したとき最初に魅了された地でもありました。
そして、その地にかまえた「偶庵(ぐあん)」が、玉堂の終(つい)の住処となりました。日本の自然と心を謳いあげた山水画を描こうと、亡くなる寸前まで絵筆を走らせた場所です。

私が尊敬していた鑑定家・川合三男先生は、玉堂のお孫さんにあたります。
「鑑定とはセンスだね」と仰っていた先生は、玉堂作品の真贋の、ひじょうに微妙な違いをしっかりと見分けられていました。三男先生に教えられたこともたくさんあります。

数年前からやっと私も近代日本画を好きになりましたが、それまでは明治以前の古い絵にしか興味が持てませんでした。
しかし、そのようなときでも玉堂の作品には親しめました。ひじょうにうまくて、いいな、と思いました。
玉堂は、日本人なら誰もが共感するような、穏やかな、優しい絵を描いてます。
かつては、日本のどこにでもあったような風景……。  
いつしか失い、忘れてしまったひととき……。  
そのような詩情あふれる、親しみやすい山水画を玉堂は描きつづけました。

玉堂の生涯

玉堂(本名・芳三郎)は1873年、愛知県葉栗郡外割田村(現在の一宮市木曽川町)に、筆墨紙商の長男として生まれました。
幼い頃より絵画に親しみ、1887年9月、14歳にして京都の望月玉泉に入門し、円山四条派を学びます。

1890年の春、入門2年あまりの頃、17歳 にして第3回内国勧業博覧会に「春渓群猿図」「秋渓群鹿図」が入選します。その際に、号を「玉泉」から「玉堂」と改めます。  
やがて、玉堂は保守的な玉泉の指導に物足りなくなって、進歩的な幸野楳嶺の門下となります。しかし、そこで実際に学んだのは新派ではなく、徹底して円 山四条派の技法でした。
毎日熱心に写生や模写をおこない、この時代の勉強が玉堂初学時代の根底となっていると、玉堂自身も回想しています。

1895年、京都岡崎で開催された第4回内国勧業博覧会で、玉堂は鮮烈な感動を体験します。
東京画壇革新派のリーダーである橋本雅邦の出品作「龍虎図」、その斬新な色彩と気迫に満ちた表現に大きな感銘を受けるのです。絵画に対する長い煩悶に、ようやく解決の糸口を与えられたと思ったようです。

迷うことなく翌年、23歳のとき、上京して雅邦に師事します。  
雅邦のもとで玉堂が学んだのは、革新的な狩野派でした。古典的な京都・円山四条派と、対照的な狩野派。その両方を学び、自分のものとした玉堂は、融和の日本画家ともいえるでしょう。

それまでの日本画には、 各流派の様式が表に出すぎるきらいがあって、玉堂のように当たり前の実景を感じさせる風景画は少なかったといえます。  
ときは日本画壇激動の時期でした。玉堂も、その渦の中心にあった、岡倉天心、雅邦、横山大観らの創立した日本美術院(1898年)に当初より参加します。しかし、玉堂は決して周囲の動きにとらわれることなく、自らの信じる画道をマイペースで歩きます。
自分に課したのは、美しい日本の風景を探し求め、それを描き残すこと。四季折々の山河と、そこで生きる人や動物の姿を、美しい墨線と彩色で描くことを追求しつづけるのです。

1900年頃からは私塾「長流画塾」を主宰、1907年には第1回文部省美術展覧会(文展)審査員に任命されます。
1915年からは東京美術学校日本 画科教授となり、日本画壇の中心的存在の一人となります。
1940年にはその功績が認められ、文化勲章を受章しました。   
戦時中の1944年に、かねてより頻繁に写生に訪れていた東京都西多摩郡三田村御岳(現青梅市)に疎開し、住居を「偶庵」、画室を「随軒」と称しま す。
同地の自然を愛した玉堂は、戦後もそのまま定住し、同地で1957年没しました。
絶筆は、大海原に漕ぎだす漁船を描いた「出船」でした。  現在、同地には玉堂美術館があります。

玉堂が18歳のときに描いた「老松図」。
大樹の堂々とした風格と、生き生きとした生命感を表現している。

私の好み

鵜だけ描いてある、売れない『 鵜飼 』が好きです

玉堂が生涯かかげたテーマは、人と自然の共存する世界といえるでしょう。
山があり川があり、草木が生い茂り、鳥が飛び、馬や鳥がいて、人がいる。  心が安らぐ、生きとし生けるものが共存する世界です。
失われつつある自然と人々の営み……、自然と調和した人々の生活……、素朴で平和な暮らしぶり……。そのようなものへの郷愁と愛惜の思いが、玉堂芸術 の根底にあります。
「自然とひとつに、それが玉堂さんの宗教といえば宗教、思想といえば思想、生きるすべての原則だった」と、親交の深かった小説家・吉川英治も語っていま す。宗派を訊ねられて、玉堂自身も「大自然宗です」と答えていたそうです。

生涯変わることなく、自然の中に生き、自然のいとなみを愛し、詩情を込めて日本の四季を描きつづけた玉堂。その透明感のある、余韻に満ちた作品の数々 は、日本人の琴線に訴えかける魅力にあふれています。
「自然を見て、見て、さんざん見るんです。こうしていて目をつぶると、あらゆる自然がはっきり浮かんできます。そうでなくっちゃ描けません。自然が、私に表現の方法まで教えてくれるのです」と、玉堂は語っています。
「洋画は自然をそのまま絵にしますが、日本画はそれを作って絵にするのです。だから日本画はひとつの場所を絵にするよりも、違った多くのよい場所を集めて、それをつぎあわせて、ひとつのまとまったよい絵にこしらえる場合が多い。日本画は思うままに自然を組み立て、改廃することによって、特別の味を出すのです」  
玉堂の描いた風景は、玉堂の意識の中で組み立てられた、かつてどこでも見られた懐かしき日本の景色なのです。

個人的には、力量発揮の代表作といわれるものよりも、筆の勢いで描いたような、ささっと一気に描いた作品が好きです。本画を描いていて、筆休みで、やすやすと描いたようなものがいいのです。  
生涯500点もの「鵜飼」を描き、「鵜飼といえば玉堂、玉堂といえば鵜飼」とも言われていますが、私は鵜だけ書いてある、売れない「鵜飼」が好きですね。

鵜飼、自由闊達な、突き抜けたような作品がいいのです。筆に勢いがあって、うまいなぁ、と思います。
にっぽんの美を探し求めて  玉堂は、あたかも日記を記すように、毎日、写生を欠かさなかったといいます。外で飲んでどんなに夜遅く帰宅しても、必ず墨はすったそうです。  

最後は寝たきりになっても絵筆をとり、顔に絵の具がしたたり落ちても描きつづけました。
「右手だけは、最後まで動いていました」と、お孫さんの三男先生も仰っていました。根っからの絵描きだったのです。素晴らしいですね。

今では、そういう人がいなくなったように思います。
近代日本画の巨匠・鏑木清方は、玉堂が亡くなったとき、「日本の山河がなくなったような気がする。日本の風景がなくなったような気がする」と語っています。

決して失いたくないもの……。  
四季折々に豊かな風情を見せる自然の情景……、
受け継がれてきたにっぽんの美……。  
まだ、間に合う、という気がします。

安河内 眞美

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